最近、平日の昼間は、次女が保育園を休んでいない限りは翻訳に集中しています。基本的にパソコンの前にへばりついています。締め切りが刻々と近づいているからです。正直言って、翻訳は忍耐力勝負の仕事です。
ジャーナリストの仕事は、事実を確認したりコメントを取ったりするため、人に話を聞くのが中心です。あちこちに電話するし、しょっちゅう出かけます。何かニュースが発生すれば、ただちに動かなければなりません。そんな仕事を25年近くも続けてきたから、翻訳の仕事(ここでは本の翻訳に限っています)には当初戸惑いました。
ジャーナリストが動的だとすれば、翻訳家は静的です。1日中パソコンとにらめっこで、テーマも毎日同じ。1時間もパソコンの前に座っていれば、通常は集中力が途切れます。コーヒーを飲んだり、雑誌を読んだりしてひと息入れるにしても、まる1日も翻訳に集中するのは難しいです。
わたしの場合、午前9時ごろから午後4時ごろまで翻訳の時間に充てています。昼食をはさんで実質6時間。午前9時前は子供たちを小学校・保育園へ送り出すので忙しく、午後4時以降は夕食を準備したり子供たちを迎えにいったりで仕事ができなくなるからです。
ただ、6時間まるまる確保できる日はまれです。保育園から呼び出しがかかることはしょっちゅうです。きのう(7月17日)もそうでした。また、スーパーで定期的に食材を買いに行かなければならないし、ほかの仕事を優先しなければならない場合もあります。そんなわけで、深夜と早朝も貴重です。早朝は5時前からです。
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I Like To Move It Move It
I Like To Move It Move It
I Like To Move It Move It
Ya Like To (MOVE IT!)
これは、映画『マダガスカル』でも有名になったラップ音楽「アイ・ライク・トゥ・ムーヴ・イット(I Like to Move It)」の歌詞です。秋から小学2年生になる長女が時々口ずさんでいるのです。「どこで覚えたの?」と聞いたら、「アフタースクール(学童保育)でかかっているから」という答えでした。
日本にいる時、長女は「プリキュア」を筆頭にテレビ番組の主題歌を好んで歌っていました。ところが、アメリカに来てからテレビ番組の主題歌を歌うことほとんどなくなりました(アメリカでは歌いたくなるような主題歌が少ないのが原因かもしれません)。代わりに、学校やアフタースクールで覚えた曲を歌うのですが、そこにはラップやレゲエが交じっているのです。アメリカらしいです。
先日はレゲエの大御所ボブ・マーリーの「3羽の小鳥(Three Little Birds)」を歌っていました。再び「なんでこんな歌を知っているの?」と聞いてみました。そしたら「学校で音楽の時間があってね、そこで音楽の先生が教えてくれたの」と説明してくれました。ついでに「今度この歌のCDを買ってね。iPodで聞きたいから」とも。
わが家にはボブ・マーリーのレコードはありません。何度も引っ越しているうちに無くしてしまったようです。ちょうどいい機会なので、新たに購入しようかと思います。
この調子で大人の洋楽に興味を示してくれると、親としてもとてもありがたい。耳にたこができるほどプリキュア(長女の場合)やウルトラマン(長男の場合)の主題歌などを聞かされてきたからです。
ちなみに、妻が図書館でビーチボーイズのCDを借りて長女に聞かせたら、喜んでいました。南カリフォルニアで車を運転しながらビーチボーイズを聞くのは最高ですね! 気分が明るくなります。子供とも趣向が一致すれば、一石二鳥です。
やっと子供たちを小学校・保育園へ送り届け、ホッと一息つけました。毎朝が嵐のような状況なのです。
けさの状況を振り返ってみます。妻が7時前に家を出ていなくなり、同時に3人の子供が目覚めます。まずは3人分の朝食をつくらなければならないのですが、次女は1歳なので、みんなとは違う食事です。同時に違う食事を作るのは至難の業です。
朝食に加えて昼食も同時に作ります。長男と次女のランチが必要なのです(長女はサマーキャンプでランチを買うこともできます)。朝食と同様に、次女には1歳児に見合ったランチを別に作ります。きょうは次女には白米、味噌汁、野菜スープ、オレンジ、牛乳、ベビーフードを用意し、長男にはドライカレーを用意しました。
並行して、次女のオムツを替えたり、長女、長男のためにプール用の水着を用意したり。重労働なのは、次女に朝食を食べさせることです。長女と長男は放っておいても勝手に食べますが、次女はそうはいきません。付きっきりで食べさせなければなりません。大わらわの状況下で、長女は「きょうのスープは変な味がする!」と不平を言い、長男は「お腹痛いから食べられない!」と騒いでいます。次女はスープをこぼし、床がべちょべちょに……。
もう1つありました。次女がすきあらば「抱っこして!」とせがむのです。実際には「あー、あー!」と言い、両手を上げているだけですが、「抱っこして!」というメッセージを発しているのは100%明らかです。そのメッセージを無視すると大変です。「あー、あー!」が「ぎゃー、ぎゃー!」に変わり、大声で泣き始めるのです。とはいえ、次女を抱っこしたままでは食事の用意はできません。
必然的に、大人はとても食事できません。というか、食べる時間がないのはもちろん、大人用に食事を作っている余裕がまったくないのです。大抵、わたしは子供たちを送り届けた後、近所のスターバックスでサンドイッチとコーヒーを買い、新聞を読みます。至福の瞬間です!
補足しておくと、現在、おじいちゃんとおばあちゃん(わたしの両親)が助っ人として、3カ月間の予定でわが家に長期滞在しています。2人も80歳を超えていながら大活躍です。助っ人がいなければ、毎朝の嵐をとても切り抜けられません。
7月1日にマネジメントの父、ピーター・ドラッカーの自伝『
知の巨人 ドラッカー自伝』が日経ビジネス人文庫から発売になりました。ちょうどドラッカー生誕100年に合わせて出版する格好になりました。
本書は、ドラッカーが他界する直前に出版された『
ドラッカー 20世紀を生きて』の文庫版です。新たにセブン&アイ・ホールディングスの伊藤雅俊名誉会長が「文庫版に寄せて」を書き、わたしが「訳者あとがき」を書きました。
わたしは現在カリフォルニア州クレアモントに住んでいますが、ここはドラッカーにとって「第2の故郷」です。帝都ウィーンで生まれ、ハンブルク、フランクフルト、ロンドン、ニューヨークなどを転々としながら激動の20世紀を生き抜いたドラッカー。最後の数十年を過ごしたクレアモントをこよなく愛していたようです。理由の一つは天候です。
わたしは5年前、クレアモントにあるドラッカーの自宅を訪ね、数週間かけて長時間インタビューしたことがあります。それを基にドラッカーは日本経済新聞で「私の履歴書」を連載し、最終的に本の形にしたのです。出版から数カ月後にドラッカーは他界したため、『20世紀を生きて』は結果的に遺作になりました。わたしが担当したインタビューも、生前のドラッカーにとって最後の長時間インタビューになりました。
当時はクレアモントに住むことになるとはつゆ思いませんでした。それだけに、『ドラッカー自伝』では個人的な思いも込めて「訳者あとがき」を書きました。クレアモント市内で時々会うドラッカー夫人(現在90代後半でありながら健在)の話も盛り込みました。一読していただけると幸いです。
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