先週末は土、日、月と3連休。カリフォルニア・ディズニーランドの年間パスをフル活用し、家族全員で日曜日に続いて月曜日もディズニーランドへ行きました。1月中旬に年間パスを購入してから1カ月余りで、合計6回もディズニーランドを訪問したことになります。年間パス購入費(家族全員で955ドル)をすでに回収した計算になります。
東京ディズニーランドと比べると、はやり空いています。日曜日は連休の谷間であったことからやや混雑していましたが(それでも待ち時間はせいぜい10分か20分)、月曜日はがらがらでした。どんなアトラクションも待ち時間は事実上ゼロ。そんなわけで子供たちは大ハッスルし、へとへとになるまで遊んでいました。
写真は、月曜日の午前中「モンスターズ・インク」へ向かって歩く妻と子供たち。見ての通り、人影はほとんどなく、気持ちよかったです。
本家ディズニーランドには「ディズニーランド」と「カリフォルニア・アドベンチャー」の2つのテーマパークがあり、今回は後者へ行きました。月曜日は午前10時から4時間程度、主にアドベンチャー内の「バグズランド」(映画『バグズライフ』をテーマにした一画)で遊びましたが、その間に小学2年生の長女が楽しんだアトラクションを以下に紹介しておきます。
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少し報告が遅れましたが、ビジネス週刊誌「週刊東洋経済」の2月6日号に著名投資家ウォーレ・バフェットをテーマに寄稿しました。タイトルは「投資の神様バフェットが考える10年後の成長株」。「2020年の世界と日本 世界の賢者34人が語る大局観」という特集の中の記事です。機会があったら見てください。
「これはなかなか面白い。興味深く読ませてもらった。日本に戻ったら1冊買います」
わが家に3カ月近く滞在し、週明けに帰国する助っ人のおじいちゃん(妻の父)。ここ数日は大雨が続いて外に出られず、本を読んでいます。きのうはスタンフォード大学の青木昌彦名誉教授の自伝『
人生越境ゲーム』を読み、感動していました。青木教授と年齢がほぼ同じで、1960年の安保闘争などの話を面白く読めたようです。
それだけではありません。青木教授は「あとがき」でわたしや妻のほか、わたしの父のことまで書いてくれているのです。だからおじいちゃんはこの本を身近に感じたようです。
久しぶりに数年前の記憶がよみがえってきました。青木教授が『人生越境ゲーム』の「あとがき」に書いているように、わたしは同教授の自伝執筆(厳密には日本経済新聞の「私の履歴書」連載)に協力しました。2007年の夏から秋にかけて、カリフォルニア・スタンフォードへ数週間出張して同教授にインタビューしたり、関連資料を集めたり、草稿を用意したりしました。
当時は、長年勤務した日経新聞社を退社したばかり。息つく間もなくほぼ3カ月間、缶詰め状態になるほど忙しかったです。でも、実りの多い仕事でした。マルクス経済学者から数理経済学者へ華麗に転身した経緯をはじめ、青木教授から興味深い逸話を数多く聞けたばかりか、わたし自身にとって「家族再発見の旅」にもなったからです。
青木教授の「私の履歴書」を担当することになったきっかけは、経営学者ピーター・ドラッカーでした。わたしはドラッカーの「私の履歴書」執筆に協力し、それなりの実績を残せたため、日経新聞社から「青木昌彦の履歴書も担当してほしい」との依頼を受けました。青木教授は日本人ですがグローバルな舞台で活躍しており、マネジメントにも造詣が深い経済学者。だから、日経新聞社は「ドラッカーを担当した牧野が適任」と思ったのでしょうか。
ところが、インタビューを進めるうちに、わたしは「ドラッカーを担当したから適任なのではない。まったく違う理由で適任なのだ」と勝手に思うようになりました。青木教授と同様に、わたしの父も若き日は学生運動の活動家。しかも、学生運動の中心舞台だった東大経済学部の出身という点でも青木教授と同じ。2人の間には共通の友人が多数存在したのです。
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経営学者ピーター・ドラッカーの生誕100年を祝う「ドラッカーウイーク」の期間中、各界から著名経営者や学者がクレアモントに集まります。来賓リストには、『ビジョナリーカンパニー』の著者で経営学者のジム・コリンズ氏のほか、イトーヨーカ堂創業者でセブン&アイ・ホールディングス名誉会長の伊藤雅俊氏も含まれています。
コリンズ氏はクレアモントにあるドラッカー宅を訪ね、ドラッカー自身から薫陶を受けたことがあります。ドラッカーを師と仰ぐ同氏は、新作『偉大な企業がどう凋落するのか(ハウ・ザ・マイティ・フォール)』を発表し、ますます意気軒高。ドラッカー亡き後、アメリカを代表する経営学者です。
たまたまですが、わたしは数カ月前にコロラド州ボルダーへ行き、コリンズ氏にインタビューしたばかりです。「日経ビジネス」の別冊付録「日経ビジネスマネジメント」用にインタビュー記事を書くためです。インタビューの中で、同氏は次のように語っています。
「ドラッカーがいなかったら私たちは今よりずっと暗い世の中にいることでしょう。ドラッカーは、社会をより生産的にしようとしてペンを執ったのではありません。社会をより人間的にしようとして著作を書き続けてきたのです」
コリンズ氏には10年ほど前にもインタビューしたことがありますが、話がとても上手です。週末にはドラッカースクールで講演する予定です。聞きに行きたいと思っていますが、子供たちを誰かに預けることができればという条件付きです。
一方、日本ではあまり知られていないですが、伊藤名誉会長はドラッカースクール最大の支援者です。今では同スクールの正式名称も「ピーター・F・ドラッカー&マサトシ・イトウ経営大学院」です。日本人ビジネスマンがアメリカのビジネススクールに多額の寄付を行うのは珍しいのはもちろん、日本人ビジネスマンの名前がアメリカの有力ビジネスクールに冠されたのは初めてです。
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「マンマ」しか意味のある言葉を話さなかった月齢16カ月の次女M。最近になってようやく2つ目の言葉を話すようになりました。「アイス(正確にはアイシュ)」です。
わが家では時々、行き付けの「バスキン・ロビンス」でアイスクリームをまとめ買いします。先週、Mがヘルペスでどうしようもなかった時、アイスクリームを与えました。以来、台所の冷蔵庫にアイスクリームがあるということを認識するとともに、「アイス」という言葉も覚えました。通常、「アイス、アイス」と言いながら冷蔵庫の前まで歩いて行き、冷凍庫を指さして再び「アイス、アイス」と言います。誰にも相手にされないと、しばらくして「アイス、アイス」が「アー、アー!」という泣き声に変わります。
食べる場所も決まっています。パソコンの前です。ヘルペスの時、わたしはMを膝の上に乗せ、インターネットのユーチューブを使ってクレイアニメ「ピングー」を何度も見せました(ユーチューブがあって本当に便利!)。わたしの膝に乗ってピングーを見ながらアイスクリームを食べるのがMにとって最高のエンターテインメントになってしまったのです。
こんな習慣はいつかは終えなければなりません。行儀が悪いうえ、わたしがまったく動けなくなるからです。
もっとも、Mは今、完全にパパっ子。パソコンの前にいなくてもわたしを放っておいてくれません。何をするにもそばにパパがいないと気が済まないのです。少しでもそばを離れると、「アー、アー!」と抗議しながらわたしの所までやってきて、元の場所に戻るよう要求するのです。
これを大変と思うべきか、うれしく思うべきか。数年先に現在を振り返れば、きっと「懐かしくて楽しい思い出」になっているでしょう。そして、そのような経験を2度とできないということを残念に思うかもしれません。